​「道場の作法112019年12月

​何時もでの「大声の挨拶」は子供たちにあえて奨励はしません。武道人は人の気持ちに敏感なデリカシーの効いた人であるべきです。例えば、武道館の廊下で道主とすれ違った時の挨拶はどうして非礼になるのかと「立ち止まらない、目をあわせない、声をかけない」という配慮の形があります。相手に此方を意識させ煩わすを避けるためおのれの存在を消すのです。脇に寄って目を逢わせず軽く「会釈」しながらすれ違います。

​「道場の作法102019年11月

毎日の稽古は、新たな気づきを吸収するために自分を真っ白にする時間です。その為に指導者は、基本に忠実な技、そして質の高い手本を示すために研鑽を積まなければなりません。教わる人は「教わる」という受け身の姿勢ではなく、「吸収する」「学び取る」という姿勢。そして指導者は「教える」というよりも、よいものを「示す」事と、学ぶ側を「導く」事が理想です。有段者も一切を白紙にして臨むと本物が見えてきます。普段の生活では自分を真っ白にして新しいことを吸収するという体験はなかなか得られません。自分を無にして気付く稽古法はその人の人生をも豊かなものにしてくれるでしょう。

 

​植芝守央道主 述より

​「道場の作法92019年10月

今自分がどんな姿勢、どんな表情をしているかを監視する「もう一人の自分」を自分の脇に立たせておくこと。

​「道場の作法82019年9月

《精神世界》

茶の世界に「三音」と呼ばれるものがある。点前(てまえ)のときに発する三種類の音の意味である。湯のたぎる音、湯水を組み入れる音、釜の蓋を切る音、茶筅(ちゃせん)通しの音などの微細な音で、日常生活の場ではほとんど意識にものぼらないような音たち、和敬清寂を旨とする世界では、こういう種類の音も客に対する馳走なのであり、もてなしなのだ。端然と座っていてい一語も発しなくとも、風の音、水の音の妙趣を味わっていられるのは結局、その人の内面的な精神世界の広がりである。

武道にも黙想、礼、稽古、黙想、礼のプロセスがあり、それらを通して人間形成がはかられる。合気道は動とすれば、その入り口に黙想という静がある。技を掛け合い思いのほか気持ちよく受けが吹っ飛んで、自分も上達したものだと、喜ぶのはまだまだでしょう。投げるにも気配りや思いやり、誠実な礼があったか、どんな相手からも自らの技術の向上が出来、かつ初心に帰るを知る心の養いを持ったか、精神世界の広がりを残心といいます。

昨年T氏の何気ない言から黙想を稽古の前後に取り入れた、また今迄子供たちの帯がゆるんだりほどけて様にならなかったが、少年部のKさん、青年部のOさんは緩みもしない、早速習い取り入れました。今回おふたり共それだけで審査合格・!。良い演武会になりそうです。

◎9月29日(日)は演武発表会、よろしくお願いいたします。

​「道場の作法72019年8月

《言葉の重さ》

我が国には古来言霊(ことだま)という言葉がある。言葉は塊であり人格である。言葉というものは本来全人格をかけて使うべきものであった。人の信頼感とは要するに言葉の重さのことだと思ってよい。

「人生意気に感じなば、功名誰かまた論ぜん」で有名な魏微の詩「述懐」に、「希布(きふ)に二諾なく、候えい一言を重んず」の語がある。ともに史記に登場する人物だが、希布が一言「承知した」と言ったら再度念を押す必要がなかった。また、候えいという人は、自分の吐いた一言を守って信義を貫こうとして落命した人物である。この故事から「君子二諾なく、志士一言を重んず」、あるいは、「男の一言、重き事千鈞」などの語が生まれた。

「葉隠聞書」では、「物言いの肝要は言わざる事なり、言わずしてすますべしと思わば一言も言わずしてすむものなり」と言い切っている。言わずにすますわけにいかないことだけを、言葉少なに、言語明晰に言え、ということだろう。「礼記」でも言っているように、礼とはお追従をいうこととは違う。時と場合によっては相手がその事で傷つくであろうということがわかっていても、言わぬわけにはいかない言葉もある。

朱子学の古典「近思録」には、言うべき場面ではたとえ「あなたの首を頂きたい」というようなことでもいえるようでないと、ものの役に立たないとある。そのことは基本的には現代でも変わらない。

​「道場の作法62019年7月

ものをまたぐな​

​当道場では皆さん気をつけているが、人の通るところに放置した結果またいでしまうことがある。畳の端に短刀や木刀を置くと気づきにくい。

伊達政宗は家臣に対して「この世に客に来たと思え」と説いています。心しましょう。

​「道場の作法52019年6月

​歩き方

​首筋を立て、あごを引き、上体を柔らかに重心を低く、足首、膝を柔らかに体を揺らさず足音を響かせずに歩く。通常、走るのは非常のことであって、電車に駆け込むなど余裕のなさを嫌います。人や物に接触したり、物につまずいたり、足音を響かせたりするのは神経の粗雑さを示すものです。かつては刀の鞘や鐺(こじり)を人や物に接触させるのは恥とされていました。車で言えば車幅感覚の悪さ、周囲にお構いなしの携帯電話、出入り口に屯(たむろ)するたしなみのなさ等この「間積り」の悪さはそのまま対人関係でのスタンスの取り方の悪さに直結するのです。

​「道場の作法42019年5月

面ざし

欧米人の間には東洋人の笑顔は不気味だという声がある。ニコニコのつもりがニヤニヤ、ニタニタと感じたりセセラ笑っていると誤解されるそうです。笑顔=いい顔とは言い切れません。戦前に比較して戦後の日本人の姿勢表情(面ざし)はずいぶん悪くなったという指摘があります。事実日本が空襲にさらされた時代でさえ日本人たちは穏やかでお互い助けあっていたという世相でした。今はモノやお金が豊かになって世の中が便利になってくるに従って人の心が衰えてきてそのことによる犯罪が後を絶ちません。少々経済が衰えたとしても穏やかで安心して暮らせる世の中、慈しみ会う社会にすることが一番の幸せの素でしょう。それは、家庭、学校、会社の社会世相を良くしなければなりません。おもねらず、たかぶらず、端然としていて、しかも好印象を与える表情というものが存在します。表情のモデルとして山本権兵衛(ごんのひょうえ)海軍大将の写真(ネットでご覧ください)昨今この種の顔に接することがないがこの面構えは典型的な武人の顔で、開祖の顔にも一種共通するものがあり、武の世界の男の顔であることは確かでしょう。今一度開祖のお写真で今、自分がそんな姿勢、表情をしているか反省し修養しましょう。

​「道場の作法3」2019年4月

 表情の保ち方はあごを引き、首筋を起こし、目は素直に見開いてまっすぐに相手を見る。目つきに心の状態があらわれ、どうかすると目つきと口元に何ほどかの歪がでるのだ。虚心にまっすぐ見ることができたら立派です。横目、上目遣い、見下ろし、いずれも卑しい目つきである。口元も歪めたり、食いしばったり、また、だらしなく開けたりせずに、素直に閉じていればよい。

 視線について相手の目を見て話せとの意見があるが、これは欧米の作法であって、小笠原礼法には「目通り、肩通り、乳通り」という心得がある。目の高さが上限、乳の高さが下限、左右は型の幅、おおむねこの範囲内に漠然と視線を置いて、一点を擬視しない心得である。

 合気道でも漠然と相手の全体をよく見よと言っている。一般的に対話の最中に相手の着衣や持ち物を観察したり値踏みすることも、体つきや風体の品定めも厳禁。よそ見はなおよくない。つまり「視線」には、見てもいけないし、見ないでもいけないという要素がある。これが、視線がコントロールできれば一人前と言われる理由でもある。

​「道場の作法2」2019年3月

座るとき、どちらの足を引くかについては古来、陰の足(上席から見えにくい側)から引けと教えている。立ち上がる時も影の足の教えがあるが、右足から立てるのは攻撃姿勢に通じるからよくないという伝承もあって異論が無いわけではない。座礼のときの手のつき方についても同様である。左足から座る場合、左足のつま先を右足のかかと付近まで引き両膝を屈していって静かに左膝から床につき、両足の拇指をつけて両かかとを開き、臀部を安定させ、腰骨を起こして座る。両手は指をそろえて膝の上に八字型に置く。上体の保持の仕方は立ち姿と同じく心持上体を前に倒す、普通足のしびれを防ぐ効果をいうが、不遜な感じを与えないための心得である。

*注意 礼法を始めると他人の不作法や不心得が気になりだす。人をはた目にもまことに気難しい、場合によっては大変イヤミな人間になりかねない。気をつけましょう。「礼は道の華にして乱の首(はじめ)なり」と古人は伝えています。礼儀作法を無視しては秩序が成り立ちませんね。

​「道場の作法1」2019年2月

「葉隠聞書」の身だしなみの記述に、「士は毎朝行水月代髪に香をとめ、手足の爪を切って・・・」とある。つまり見苦しい姿で討ち死になどしたら末代までの恥辱だと気を配るのである。

 日本海軍の猛将山本権兵衛は日本海海戦の戦闘開始にあたって秋山参謀が送った電文の中の有名な「本日晴天ナレド波高シ」という部分を見て、武人にあるまじき無用の美文だと激怒したと伝えられるが、虚飾と冗美を嫌う戦闘者としての徹底した合理精神の持ち主でありながら、香水(ホワイトローズ)を常用していたという。

​ 武道の伝統的な心得としては、まず身分立場をわきまえた上での「清潔」「質素」「機能性」と、どういう意識で事にあたっているかということでしょう。

​「目標」2018年12月

​アメリカ大リーグ、エンジェルスの大谷翔平選手が投打に大活躍し新人賞を受けました。その大谷選手が、なんとまだ高校1年生の時に、目標達成シートを作成し、それを着々と実践してきて今があるという記事を読んで驚きました。

表はどうなっているかというと、真ん中の正方形を3x3=9つのマスに分け、その中心に自分の「目標」を、そしてその周りの8つのマスにその「目標」を達成するために必要だと思われる「要素」が書いてあります。大谷選手は「ドラフトで8球団から1位指名を受けること」を目標とし、その目標を達成するために必要な要素として「体つくり」「コントロール」「キレ」「スピード160km/h」「変化球」「運」「人間性」「メンタル」の8要素を上げています。そして更にそれらの8つの要素について、まわりの8つの正方形をそれぞれ3x3=9つのマスに分け、その中心にそれぞれの要素を、その周りの8つのマスにその要素を満足するために大切なことが書かれています。特に感心したのは、「運」をよくするための8つの取り組みです。「あいさつ」「ゴミ拾い」「部屋の掃除」「審判さんへの態度」「本を読む」「応援される人間になる」「プラス思考」「道具を大切に扱う」・・・どれも本当に大切なことばかりです。これらを大谷選手は心がけてやってきた。そして今がある。素晴らしいことです。夢・目標を実現するためには、やはりこうゆう具体的な計画を立て、それを実行し、反省しながら進歩してゆくというプロセスが大切なのだと改めて思いました。

​大谷選手がんばれー!

​「残心とは」2018年11月

「残心とは」心が途切れることなく、力をゆるめたり、くつろいでいながらも気配りや思いやりの心を養い育てることです。

残心とは、相手に対して誠実に礼を尽くし、喜ぶことなく試合・稽古の相手があることに感謝する心です。残心とは、どんな相手からも自らの技術の向上が出来、かつ初心に帰ることができる心そのものであります。

​武道が英語でマーシャル・アーツと言われるかの如く、挑戦的な創造芸術であり、人間そのものの生きた芸術として、書道、演舞、禅、茶道、華道、短歌などと同じく芸術表現を軸とする実践学でもあります。今日の芸術的イメージを考えるにあたって、余韻というものの重要性を教えています。武道の中には黙想、礼、稽古、黙想、礼のプロセスがあり、それらを通して人間育成が図られる。国つくりは人づくりを基盤に成り立ち、個々の人々の価値観の理解そのものが国づくりに影響を与えるということでしょう。

​武道誌より

​《型》を繰り返す意味 2018年10月

武道の基本は《型》を身につけることにあります。繰り返し同じ動作を行うことで、自然な体の動きが身につき、とっさの場面でも基本の《型》を生かした対応が可能になります。同じように、生活の中でも自分らしく生きる基本的な《型》があり、それを身につけるとストレスにも上手に対処できるようになります。

あるゴルフのレッスンプロは、ひとつのスイングが無理なくスムーズにできるようになるためには、1万回素振りをすれば良いといいます。私たちはつい成果を焦りすぎます。勉強も同じです。いくら成績を上げたいと考えても、基礎ができていなければ成績は伸びません。その考え方は、武道の稽古で技を身につけ上達してゆくプロセスでもあります。役に立つのかと疑問に思いイヤになることもあるでしょう。ところが、あるとき、思いがけなく気づく経験があります。武道の稽古の意義は単調な繰り返しにも深い意味があるということに気づけるところなのでしょう。

​武道誌より

​残心 2018年9月

国際宇宙ステーションに長期滞在した宇宙飛行士の金井宣茂さんは、武道で培った「残心」で、科学実験などのミッションに取り組んだといいます。「残心」とは、合気道などで技を決めたあとでも、少しも油断せずに、いかなる変化にも直ちに応じられるよう、緊張感を持続する心構えの事です。金井さんは「宇宙はいつ不測の事態が起こるか分からない。複雑な実験を終えて安心した後、サンプルをしまい忘れ、失敗したケースもある。」「残心の心で油断なく細やかな仕事をするよう心がける」と述べています。

 

茶道の心構えでは、「茶道具から手を放すときは、恋しい人と別れる時のような余韻を持たせよ」と、美しい所作を通して「残心」がとかれます。

​「残心」を心してください。

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